ローズ家の戦争

 特に理由もなく夫(マイケル・ダグラス)を嫌悪する妻(キャサリンターナー)は、絶対的他者としての女性のように映画に描かれる。物語半ばにいたると、彼女の嫌悪の絶対性が観客にも充分伝わってきているので、マイケルがキャサリンに対して「愛しているよ」などと言って、なおもより戻しを求めようとするのを見ると、その甘さに歯噛みする思いがしてくる。男性の弱きことよ、と思わず慨嘆してしまう。その弱さの実態とは、女性に対する幻想からの不自由性なのだ。
 二人は互いにこの世もないほど憎みあっている。しかし、お互いの憎悪は等質ではない。妻がその夫を即物的に、モノとして憎んでいるのに対し、夫の方は妻を憎んでいるのではなく、妻が自分を憎んでいることを、つまりコトを憎んでいるのだ。そしてモノに対する憎悪の方が、その反駁不可能性のゆえに、絶対的優位を保っている。
 それにしても、これほど理不尽に絶対的に憎まれる夫役を演ずるマイケル・ダグラス自身が、次第に憎まれて然るべき、魅力のない人間、不快な存在のように思えてくるのは、どういうわけだろう。「ウォール街」「危険な情事」とほぼ同じキャラクターを演じているのに、これらの作で発散していた男性的魅力は、ただ映画の中で魅力的な人間として設定されていたことによるもので、俳優個人に本来的に具備されていたものではなかったことが露見してしまったのだ。「危険な情事」のなかでも、彼は絶対的他者としての女性に出会い、命を落しかけるが、こちらの相手は狂人であり、狂人に徹底的に愛されてしまうことの恐怖が主題だ。まったく普通の神経をしている正常な女性から、理由もなく徹底的に憎まれてしまう(離婚話がこじれて憎しみが増大するという筋立てだが、見ていると最初から憎しみの量は極限的に存在していたように思える)こちらの話も怖い。もちろん「危険な情事」は上質のサイコ・ホラーで、見ている限りではこちらの方が百倍怖い。しかし、一見した後、バカバカしさしか残らない「ローズ家の戦争」は、そのバカバカしさが、人間の関係性の無化を示しているようで、質の悪い恐怖があとに残る。
 監督のダニー・デヴィート狂言回しとして出演もしているが、あまり魅力のない役どころだった。彼自身はこの物語の外側にいるわけで、それでは彼の持ち味が発揮できない。

1989年 米 ダニー・デヴィート