白いリボン

 これもまたミスティフィケーションに満ち満ちた映画だ。良く分からない、とまたまた言わされるのも癪なので、登場人物の一覧表を作り、二回目はメモを取りながら見てみた。この映画で起こる不可解な事件で、少なくとも加害者が明確でないのは次の三つである。
 ①ドクターが自宅前に張られた針金のせいで落馬、入院
 ②男爵の子供が、暴行され逆さづりにされた
 ③助産婦の子供が、暴行され大怪我を負った
これらの出来事の共通点はいずれもその前後に村の子供たちが集って不審な行動を取っているということである。男爵の荘園が火事になったのは、おそらくその直後に首を吊って自殺した小作人の仕業だと見做せる。妻が男爵の納屋で事故死したことや自分や娘が男爵から解雇されたことの腹いせなのだろう。
 では、①〜③はすべて子供たちの犯行なのか、その動機は何か。
 ドクターへの犯行。動機を持つものは彼の愛人たる情婦、及び彼から性的虐待を受けている14歳の娘アンナである。しかし、助産婦の場合、彼から酷い悪口雑言を浴びて、ポロのように棄てられるのはドクターの退院後のことだし、アンナの場合も、虐待は退院後のように思える。助産婦の言葉からするとそれ以前からあった様でもあるが、少なくともアンナの言動からは父へのそれほどの憎悪は感じられない。するとやはり、助産婦との情交や娘への虐待を憤る、アンナの友達たち(特に少年たち)の犯行ということになるのか。ここで家令の娘エルナの言葉が引っかかった。家令の家を訪れた教師との会話の中で、「病気をしてドクターに診てもらった」という。もちろん病気になれば診てもらうのは当然だし、これはドクター退院後の話なのだが、ドクターの悪行が広範に村の子供たちに対して行われていたのではないか、ということに思い至る。そして家令の家では、誰かが夜窓を開け放しにしたために赤ん坊が肺炎になりかかり、ドクターの往診を受けている。窓を故意に開けたのは誰か。これはエルナの仕業なのかも知れない。
 懲罰として、腕に白いリボンをつけられ、純潔を誓わせられる、牧師一家の子供たち。クララは父の牧師があまりにも硬直的に自分を罰することに反抗して、父の愛鳥を殺す。
 マルティンは、白いリボンをつけられるのみならず、夜はベッドに縛り付けられ、自慰が出来ないようにされる。そのマルティンが反抗すれば、何をするか。橋の欄干の上を歩いてみせるだけではあるまい。
 第一次大戦前夜の北ドイツの小さな村。「私たちは信仰で一つに結ばれていた。現在の生活が神の意志だと信じていた」時代はまもなく終る。しかし、すでに現実は神の意志を裏切っていた。牧師自体が神の偽善を表わしていた。ドクターは愛の偽善を。そして男爵は支配者の慈愛という偽善を。男爵は村人の半数を雇用しているが、その夫人がよそに行けばたちまち雇用はなくなり、村人は生活に窮する。村はすべて男爵の領地であり、釣りをするにも男爵の許可が要るのだ。ハプスブルク家の体制の末端にいる男爵の子供が暴行を受けるのは、フェルディナント大公の暗殺事件と照合している。またドクターの子供とされ、堕胎を強要された為に障害児として生まれたとされる助産婦の息子が暴行を受けるのは、神の意志を裏切る淫行そのものへの報復である。
 映画の感触としては、アンビヴァレントな感情ながら少女たちはこの淫行にすでに取り込まれている。少年たちもアンビヴァレントな感情を持ち、それはむしろ(少女たちとは逆に)純真な方に針が触れている。それがいつ爆発してもおかしくはない。
 エルナが助産婦の息子が酷い目に会うという夢を見たのは、エルナ自身に(弟を病気にしてまでドクターを家に呼びたがった心と相反して)報復という心象があったものと考えられる。快楽=罪=罰としての知的障害、という子供たちに共通化された心象があったとき、誰かがその目を潰すという行為に及んだのだ。(この心象形成には、牧師の話す、自慰のために腐死してしまう少年の話が、一因にもなっていよう)
 ドクターと助産婦は、さらなる報復の予感に脅えて村から逃げ出す。
 男爵家は、男爵夫人の別離により、家としては崩壊した。戦争が彼の没落を決定づけるだろう。かくて愛の偽善も慈愛の偽善も消えた。
 不幸な人間だらけのこの映画で、唯一の幸福なカップル、教師とその婚約者のエヴァ(菅野美穂にどこか似ている)は、この村を去り、二度と戻らない。それが、この村から純真さが馬車に乗って立ち去ってしまう光景に見える。村には、子供たちの犯行を示唆した教師に対して怒り狂う牧師とともに、まだ神の偽善が残り、そしてもう決して純真でもナイーヴでもない少年少女たちが残った。

2009年 独・墺・伊・仏 ミヒャエル・ハネケ