渇いた太陽

 <史上最低のパニック映画>「世界崩壊の序曲」を含めて、その出演作のほとんどを見ているから、ポール・ニューマンは好きな俳優だったのだろうが、このところその演ずる男性像がだんだん嫌いになってきている。特に初期の頃の映画を見ると、その傾向は顕著だ。彼が演ずる人物像は、超二枚目だからしょうがないが、自分の魅力を十分知りながら、クールに装う人物、というステレオタイプなものにしか見えないのだ。つまりスカした人間である。あるいはその笑顔がにやけたもので魅力的には落ちることの自覚から、そのようなスカした顔になっているのかも知れないけれど。それに腕力もいまひとつで、アメリカ映画の中に置くといかにも頼りなく映るのも欠点か。この映画もそういう初期作品の一つで、若きニューマンの美貌には陶然とするが、やはり男性像としては愛せない。「熱いトタン屋根の猫」に続く二作目のテネシー・ウィリアムズの戯曲であり、ニューマンは後年自ら「ガラスの動物園」を監督するくらい、彼の戯曲を気に入っていたらしいが、本作を見ると、失意の女優や野望を残すジゴロや怪物政治家とその不肖息子など、人物配置はステレオタイプだし、最後はどうやら希望をつかんだ二人が映画の外に出て行く、というだけの話、としか思えない。

1962年 アメリカ リチャード・ブルックス