熱いトタン屋根の上の猫

 最後に主人公が「父親に愛して欲しかった」と言うに及んで、また、欧米に根強い粘着的父子関係ものかとゲンナリした。しかしこの父子間のみならず、この映画の全編、登場人物の誰もが誰も愛していない。ヒロインもまたその夫を愛してなどいず、自分が愛されるべきであることを主張するだけだ。それほどに「包括的・全体的承認」が不足しているのだろうか。すぐにでもその承認が手に入りそうな、美男美女の形象を借りて、そのような贅沢な悩みを悩んでみたいのか。さらにその「愛」を日本人が何か崇高なことであるかのように教え込まされてきたというのは、また別種の悲劇である。

 
 伊藤整の言葉を傾聴すべきである。

 ―その実質において征服と被征服の関係であり、相互利用の関係であり、又は肉体の強力な結びつきにおいて、対象を取り変えないことを道徳的に拘束するこの関係を、神の存在を前提としてのみ成立しうる<愛>によって説明して来たこの百年間に、異教徒の日本人の間に多くの悲劇が生まれた―。

 
 この頃がニューマンの美貌の極だろう。その額や頬や顎の線などはあたかも彫刻を見るようである。

1958年 米 リチャード・ブルックス