かもめの城

 この映画は永い間未見のままだったが、その間ずっと私の眷恋の映画だった。ビデオももちろんDVDもない古い映画なので、見ることが不可能だった。そして私もそれほどこの映画を見ることに熱心ではなかった。窓辺の風に髪をなびかせて海を見ているパトリシア・ゴッジのセピア色のスチール写真だけで私には充分だったのだ。それだけで、ストーリーも良く知らないのに、この映画に陶然となっていた。あるいはそのまま未見のままにしておいたほうが良かったのかも知れない。
 不幸にして最近になってYou-tubeでこの映画を見てしまった(現在ではDVDも手に入る)。事前の予想通り、この映画から何らかの感興を得ることはすでに不可能になっていた。
 ストーリーを改めて確認したら、アニエスは知恵遅れの少女という設定になっている。ゴッジが出演時十四歳であることも含めて(アニエスの年齢はもう少し上らしい)、やはりこれは「シベールの日曜日」同様、元祖「ロリータ」である。世知に長けた女中との情事は不純で、年端も行かず精神的にも一人前ではない少女との交情が至上のraptureと見做される。これが処女レイプ幻想でなくてなんだろう。rapeとこの映画の原題rapture(歓喜)は語源を同じくする言葉である。
 私がゴッジの夢見る瞳を夢見ていた時、彼女が夢に見、そして待っていたのは私だったのだ。私こそがカカシの洋服を着た犯罪者であり、そして死すべき青年だったのだ。私が未見のこの映画から受けた傷痕とはこのファンタジーそのものだ。そのファンタジーの源泉を知ってしまった今となっては、この映画に私が傷つけられるのはもはや不可能である。
 ジョセフに扮したディーン・ストックウェルはこの映画ではまだ若く、ほとんど美しいと言ってもいい青年だった。しかし私は彼が後に冴えないむしろ平凡な中年男になってしまったことを知っている。そのストックウェルが青年に戻ることが不可能であるように、私がこの映画から受難するのはもはや不可能である。

1965年 米 ジョン・ギラーミン