ブコバルに手紙は届かない

 紛争というものが本来もっている緊迫感が、この映画からは奇妙に伝わってこない。それは映画としての描写上の失敗なのか、それともこの紛争自体が、その傍らに日常の時間を残しつつ、鼻歌混じりで機関銃を撃っているうちに、気がついたら屍の山を気づいていた、という形で生成したことの忠実な描写なのか。局外者の私にはその点は判断できない。
 クロアチア人の女とセルビア人の男が夫婦として紹介される冒頭部から、早くも観客はその二人を襲うであろう過酷な運命を思ってイヤな気分になる。ボスニア紛争を描けば出ないわけはない強姦シーンがいつ出てくるかと待っている気分、つまりこの美しい若妻が不可避的にいつか蹂躙されるのを待っている気分は、憂鬱なものだった。しかし、同時にそのシーンを期待する気持ちが私の中にあるのを避けがたく感じていた。つまり、憂鬱だったのは自分がそのシーンを厭嫌するよりむしろ愉しむであろうことが憂鬱だったのだ。
 この強姦シーンは一度しかなかった。それが映画館賞の衛生上の限度と見たのだろう。そのシーンは火事場泥棒のようなクロアチア民兵が、どさくさ紛れに同じクロアチア人の女を犯すという形で描かれている。本当は、民族浄化と称して、異民族間で壮大な強姦の仕合をした、というのが真相ではなかったのか。
 なぜ、ベルリンの壁崩壊とともに、これまでのさまざまな軋轢や矛盾がいっぺんに奔出し、これほどの惨劇を生むまでになったのか。それまでにどんな民族的なまた宗教的な確執の積み重ねがあったのか。事情に疎い東洋の人間がこの映画をいきなり見ても、その辺のところを解説する映画ではこれはないので分からない。そして強姦の位相もそのようにずらされているために、なぜ争い合う人間達が敵の女を犯すのか、宗教的に民族的に不浄なものと思いなしている敵の女をどうして犯しつくすのか、本来は生殖と豊饒のためのプログラムがどうして破壊のプログラムに変換されてしまっているのか。という人間の真の恐ろしさが全く伝わってこない。この映画が伝えたかったのは、どうやら人間の愚かさだけだったらしい。強姦(輪姦)に手を染める男たちが、強姦される母親の小さな娘に「教育のためだ」と称してその行為をわざわざ見せ付ける類の、つまり一部の例外的な「ならずもの」の仕業のように思わせているが、果たしてユーゴスラビアを覆いつくした性的な陵辱の嵐は、そのような「ならずもの」の手によってのみなされたのか。単なるならずものの犯罪として片づけることは、ナチスの残虐行為には十分に理性のある人間も加担していたという、前世紀の恐ろしい歴史的事実に目をつぶるようなものではないか。
 男たちに洋服を引き裂かれ、目もアヤなほどの豊かな胸が画面にこぼれ出してくる。裾を乱しながら逃げる女の、その開かれた太腿が恐怖にわなないている。それらは、友愛の中で抱かれる女の自足した高貴な乳房でも太腿でもなく、投げ出された娼婦の自堕落な乳房でも太腿でもなく、それとは確実に別種の、ある暗い性的欲望の対象だった。AV女優が稚拙に演ずる恐怖ではなく、本物の女優によって表現された真に迫る恐怖であるだけに、そこに何ほどかの人間の暗い実質がほのめかされている。とにかくそのとき、つつましい日常生活の道徳の中に生きていた主婦が、エロスの対象としての「女」に変貌してしまうのだ。それを確実に見てしまう私の心の中にこそ人間の恐ろしさが潜んでいる (それが単に私が愚かなだけのためであればどんなにか良いだろう)。
 破壊されつくした町並みの光景をパンしながら抒情的な音楽を流すラストシーンは、人間の悲惨さや愚かさの鎮魂ではあっても、人間の恐ろしさを浄化するものではないだけに、もって行き場のないやりきれなさとともに、私はこの映画の外側に置いてきぼりにされたような気がした。こんな音楽で映画をしめくくるような感傷に耽っている場合では無いだろう、と誰かを詰りたい気もした。
 しかし、結局のところこの映画の制作者が、わたしよりも現実に近いところに位置していることは間違いない。その制作者の作品に対して、局外者が知ったかぶりをして何事かの言説をなしたりする無遠慮さは、少なくともこういう問題に対しては慎むべきだろう。私は、自分の心の中にこそ、地獄を見たと証言するにとどめる。

1994年 アメリカ/イタリア/ユーゴスラビア ポーロ・ドラシェコヴィッチ