サラエボ 希望の街角

 見終わってさしたる感銘もなし、と消去してしまったが、後でネットであらすじを見たら、どうやら肝腎のところを見落としたようだった。ウツラウツラ半覚半醒で見ていたため。だいたい内戦から十五年経過しているとは言え、早くも「希望」などと言い出す邦題に、見る前から反感を感じていたので。原題Na Putuは「どこかへ向かう途中」という意味らしい。
 後日、再放送されたものを録画して、見落としたところを見た。
 内戦で弟を殺された男が、宗教に「目覚め」て変貌していく。普通の穏便なイスラム教徒からイスラム原理主義者になる。政治的には過激になり、キリスト教側に奪われた自分の生家を取りもどすべきだと主張するようになる。皆がもっとイスラム教を信奉しないと、さらに殺されることになるとも。両親を殺された妻の方は、夫がそのように固陋になり加えて男尊女卑になっていくことに絶望し、待望の子供ができたにもかかわらず、別れることを決意する。
 人間に「宗教」がある限り殺し合いがなくなることはないだろう、と思わせる映画。「希望」は、奪われた生家の、今は住人になっている娘の頭を撫でる、ヒロインの寛容さの中にこそあるのだが。「宗教」、その正しさの根拠は、それぞれの聖典に「書かれ」ていることの中にある。それ以上根拠を溯ることはできないしする必要も無い。コーランに書いてあればそれは即絶対的に正しく、論駁不能である。その外部の存在を必要としながら、決して外部を認めない宗教というものは、互いに正義を求めて争いあう宿命にある。宗教を離れた人文知側の弱点は、自らの正義の根拠がどこにも書かれていないというところにある。書かれていてもそれには著者名がつき、時代の中の制約を受け、何よりも根拠というものが無限後退してしまう。宗教に深く帰依した男の方は、この根拠を得ただけで一種、心の安寧を得たようであるが、その思考は停止状態になったに等しい。しかし宗教という内閉した世界のもつ内圧としての力に較べると、人文知のほうは力が拡散して行く無圧的な世界なので、物理的対抗力として不利であることは否めない。それは「開かれた世界」が持つ根本的な脆弱さだ。とはいえ、後者に賭けるしか、殺戮を止める方法はないのだ。

2010年  ボスニア・ヘルツェゴビナ、独、墺、クロアチア ヤスミラ・ジュヴァニッチ