結婚しない女

 女主人公とその女友達とのあけすけな会話を聞いていると、つくづく女性を「愛する」理由などこの世のどこにもないという気がしてくるし、その愛らしさで父親を浮気から思いとどまらせるはずの娘役の女優も肉体的にも精神的にも全然可愛くないし、出てくる男たちはただ性欲というものをあからさまに顔面にぶら下げているだけだし、アラン・ベイツはただのデブになっているし、ここまで言っちゃえばついでに、主演女優もタレ乳で乳ウンが妊婦のようにでかいし、要するにあまりにもショボすぎる現実を突きつけられたようで、急速にこの映画に対する興味を失う。女性の自立と自由を謳い上げた映画って、本当か。亭主の浮気が発覚する前に、主人公が「私はあなたの母親じゃない」と言うところがあるが、これが亭主の浮気の真因なのかもしれない。浮気の相手(妻を捨てるのだから浮気ではなく本気なのだが)は若い女性らしいが、実は彼女にも彼は母親を求めていたのかもしれない。そんな欲求は叶えられないから、すぐその女性にも捨てられてしまったのだ。そうすると「男が快楽を得るためのコストを母/娘が払う」というレイプ・ファンタジーから自由になるということだから、やはりこれはまぎれもなく「女性の自立の物語」なのだ。この映画に抱く私の索漠とした感想は、今まで愛だと思っていたものが実は別物だったと知らされた、他ならぬ私自身の荒涼とした心象そのものである。主演のジル・クレイバーグ以外の女性を、娘も含めて魅力ない女性(魅力とは、男性にレイプ・ファンタジーをもたらす当のものを指すとすれば)としたのは、別に女優が払底しているからではなく、実は冷徹な計算がそこに働いている可能性がある。ヒロインまでそのようにしたら映画にならないから、彼女だけは魅力的にしておかなければならない。しかし、その場合でも母的幻想をもたらすような美しい乳房ではなく、母というものの現実の形を示す、かの乳房を備えた彼女を起用したのであれば、これは恐ろしいほどの計算である。

1977年 米 ポール・マザースキー