英国王のスピーチ

  ジョージ五世の皇太后メアリーに扮した女優、どこかで見た顔だと思ったが、「ライムライト」のクレア・ブルームだとは気づかなかった。兄のエドワード八世、弟がジョージ六世、その娘が現在のエリザベス女王、と英王室の系図の復習ができる映画。
 その英国王がポーランドに進駐したナチスを非難するのは当然としても、自らの王位宣誓のときに、英国、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドを統治する、と言うのを聞き、一瞬微妙な抵抗を感じた。たまたま「クライング・ゲーム」というIRAの映画を見たばかりのためもある。そこにはあたかも天皇満州王国と朝鮮国を統治すると宣告するのを聞くような違和感があった。 
 そのため、劇中のボールドウィン首相の、ヒトラーが前代未聞の節操のない人物などと言う評も、割引して聞きたくなる。総統が、オーストリアポーランドを統治すると宣言し実行することと、英国王の宣誓とは本質的に異なる要素はない。ナチスの蛮行には及ばないにしても英国も植民地に対しては暴政を施している。それに節操が無いというけれど、政治の老獪さという点では、公平に言えば英国の右に出る者はないだろう。そもそも傑出した政治家というのは皆二枚舌、三枚舌なのだ。
 それはともかく、ドイツとの戦争に際してジョージ六世が、先王の例に倣い、国民に語りかけることで民心の統一に寄与した、と言う話だが、英国民は何を持って英王室に忠誠を近い、英王室に国民の統合の象徴という機能を果たさせているのか。同じ立憲君主国の国民として興味があるところだ。家族というものが規範や道徳の基礎でありまた生計の基本的単位であるとき、王位というものは良くその機能を果たしうるのだろうか。とはいえ、明らかに、英王室の場合、皇室の如く「正しい生活」の体現者への敬服ということではない。エドワード八世の、王位を捨てた恋というのは美談と言うよりも、むしろ王室の乱脈さを示している。共和国では誰がこの機能を果たすのか。大統領は、平時には会社の社長のようなものに過ぎないし、有事に際しては単なる軍の統率者に過ぎなくなる。大統領は国家元首ではあるが、その行使する権力の背後には国民の支持ではなく財力の支持が存在する。王家は財力そのものであるが、財力で直接支配するのではなく、財がもたらした優雅な生活様式というもので文化的に統治していく。つまり何ものかの傀儡に化するという危険性は共和国よりもむしろ小さい。
 天皇をわざわざ国家元首と明記する憲法案が出されている昨今、君主国か共和国かの問題を「超越」と「内在」という視点から考えてみる必要がありそうだ。

2010年 イギリス トム・フーバー