真夜中のピアニスト

 これも世評は高い映画(ベルリン映画祭銀熊賞)だが、好きになれなかった。
 この男、なぜビアニストたらんとするのか。そしてなぜ周囲の人間が、28歳にもなったこの男にデビューのチャンスを与えようとするのか。彼はそれなりにピアノ・レッスンに励みはするけれど、何もかも忘れてピアノに没頭する、という風でもないのだ。その程度の練習で成功を望むなど、多くのピアニストたちはピアノをナメるんじゃないと思うだろう。言葉の通じない中国人女性ピアニストからレッスンを受けるというのは、本来は味わい深いシーンになるところだが、男優ロマン・デュリスのにやけた顔がピアニストというイメージからかけ離れすぎていてダメだった。演奏に陶酔しているように見せる顔でさえただ下品なだけのように感じた。
 古いエディプスの枠組でこの映画を解釈すると、不動産ブローカー業の父親の否定と、ピアニストだった母への合一の希求ということになるが、父を騙したロシア・マフィアの情婦(メラニー・ロラン)を寝取ることで、その希求は代補的に果たされてしまう。そして言葉の通じない女性とピアノとが結びつくことで、彼のエディプス的希求は完全に消滅した。だから後はその父の仇を殺すという、二重の父殺しには赴かずに、中国人女性の演奏に心を委ねるだけで自足する、という話になる。
 ハーヴェイ・カイテルが出た「マッド・フィンガーズ(1978)」のリメイクだと後で知った。こちらの原題がfingersで、邦題ではマッドなる余計な形容詞がついている。「真夜中のピアニスト」の原題は日本語にするのが難しい。仏題De battre mon cœur s'est arrêté,(俺の止まった心臓の鼓動 ?)、英題The Beat That My Heart Skipped(俺の心臓が取り逃がした拍動 ?)。思い切って意訳すると「我が死せる魂の衝迫」とか。いずれにしても、「真夜中のギター」とか「もしもピアノが弾けたなら」等々の日本の歌曲のニュアンスに近い邦題と、この原題の間には、エディプスという、日本と西洋との間にある亀裂が存在するようだ。

2005年 フランス ジャック・オーディアール