アンカーウーマン その他

 結局、人事権を持っている男は、その人事権で支配している女と寝てしまう。不幸にしてその人事権者に魅力が欠けていたらそれはセクハラになるが、男が魅力的なら情事になるだけ。だから誰もロバート・レッドフォードの所業に異を立てずに、ラヴ・ロマンスとしてこの映画を享受する。―ということを(ラフな服装が似合うレッドフォードに対するやっかみ半分に)考えたが、レッドフォードとミシェル・ファイファーの二人はちゃんと結婚して夫婦になるし、そもそも原作が実在の人物のノンフィクションだったらしいので、とりあえず、この説は引っ込めておくことにする。
 放送業界を描く映画の濫觴を1976年の①「ネットワーク」(シドニー・ルメット)あたりとし、最新作を2010年の③「恋とニュースのつくり方」(ロジャー・ミッシェル)として、1996年のこの映画をその中間の②に置いてみると、アメリカの放送業界の変遷が少し偲ばれてくる。

①視聴率に踊らされるテレビ業界を風刺する視線あり。
②最後に「報道とは、真実を語ることです」という見栄が切られる。
③芸能界、本日も反省の色なし、という映画。

 ①では描かれていたのに、②③に現れていないことは何か。それは放送ネットワークが巨大メディア資本の手中に落ちて、統合されていったという事実である。②③では、映画を含めたメディアはコングロマリットに統合されていることはすでに動かし難い現実なので、そもそも批判の対象にもならない、ということだ。それはスポンサーの悪口は言えないというレベルを越えた事態で、オーナーの批判は出来ないというより深刻な現状を示す。そのオーナーとはグローバリズムを推進し、環境破壊に組し、資本寡占化を進めている張本人なのだ。③のハリソン・フォードは、昔はバリバリの社会派キャスターだったという設定になっているが、まったくつけたりの話のようにしか思えない。それは彼の演技のせいだけではないだろう。そこには①の次第に狂気に陥っていくニュース・キャスター(ピーター・フィンチ)の存在感は全くない。
 イル・ポスティーノ(マッシモ・トロイージ)が左翼的理想とともに撮影直後に死んでしまったように、アメリカ放送界の良心なるものも、「ネットワーク」の撮影後急死し、アカデミー助演男優賞を死後に受賞した、ピーター・フィンチとともに死んでしまったかのようだ。
 
1996年 米 ジョン・アヴネット