みなさん、さようなら

 最近映画の邦題にカタカナが氾濫していることを物足りなく思っていたが、でもこの「ひらがな」邦題はさすがにいただけない。原題は「野蛮人の侵略」であるというのに。
 内容にも少し異和を感じる。なにしろ主人公の死に際に、友人たちが集まるのはともかく、複数の愛人たちと本妻とが、何の軋轢もなく互いに認可しあうというのは、さすがフランス語文化圏か、とも思うが、そこにゲイのカップルも登場して、当然それも許容されてしまうにいたると、禁忌を侵す快楽などということが太古の昔の話に思えてくる。
 息子がやり手のビジネス・パーソンで、金にあかせて父親の苦痛を和らげるためにヘロインを手に入れたり、父親の教え子に本心を偽らせて父親を褒めさせたり、最後は友人全員注視の中で安楽死を与えるなど、なんとなく話が上滑りしている感じだ。それに、映画に9.11の場面が出てきて、それを<野蛮人の侵略>の始まりだ、と呼ぶのだが、イスラムアメリカに対する挑戦、もしくは欧米金融界の自作自演、をそう呼ぶのはいいが、話の筋とそのことと、一体どういう関連があるのか。業績はないが好き勝手に生きた父親と、根本的に世渡りがうまい息子との和解の話なのだが、この二人が果たして和解が必要なほど隔絶していたのかどうか、その親子の過去が話の重みとして迫ってこない。歴史の教師たる主人公の、世界大戦の死者数と、それに勝るとも劣らぬ新大陸での先住民の殺戮数を数え上げる、凄絶、殺伐たる歴史の要約は胸に迫るものがあったが、かといってその反対物が、つまり野蛮の反対物が、家族をないがしろにしての愛欲三昧でいいのだろうか。愛欲三昧なら、終局は家族を失い、友を失いというのが順当だと思うのだけれど、家族を失っても、これは家族否定の映画だからいいとして、主人公が友人たちからも完全に見捨てられることがないとは、全くよく出来た人間たちだと思うが、これ即ちフランス文化の成果だとは思えず、生の現実のカナダ人たちはおそらくもっと孤絶しているだろうと思う。
 1986年の「アメリカ帝国の崩壊」の続編らしいが、かれこれ20年後に続編を作るというのも息の長い話だが、足掛け20年、セックス談義に明け暮れるというのも同じく息の長い話だ。

2003年 カナダ・フランス ドゥニ・アルカン