ピンキー

 奴隷制時代に白人の主人が女奴隷を犯しまくっていたことは長い目で見れば人種の混交と宥和に役立ったのかも知れないが、遺伝の法則に従って白い膚を持つ子供が生まれた場合、そこに悲劇が生ずる。白人と黒人の双方の世界に隔絶があるとき、その子供が自らの所属する世界を選択するということが難問となるのだ。マライア・キャリーの如く才能と魅力があれば、黒人の世界を選ぶのに躊躇は生じないのかも知れないが、それはごく少数の例外である。そのような子供が自由恋愛の結果として生まれた場合でも、同じ問題があることは、ネラ・ラーセンの「Passing/白い黒人」(1929年)、フィリップ・ロス「ヒューマン・ステイン」(1984年)等の小説を見ても推測がつく。
 本作は、エム様という開明的な元主人の理解により、希望のある終わり方になっているが、社会構造的な差別、社会の各構成員の各人(もちろん警察官も検事も判事もふくまれる)の身体に食い込んでいる偏見と戦うことは、ほとんど絶望的である。白人女性と思い、暗い夜道を送りましょうかという善意の男性が、黒人と知ったとたんに一転強姦に及ぼうとする、その人間の中の心の境界線の存在が恐ろしい。一度敵という境界線が成立したら、昨日までの同胞に対して人間は簡単に恐るべき残虐さを発揮する、ということはごく最近でも確認できたことだ。
同様のテーマを扱った先行作品に、「模倣の人生」 (1934年/ジョン・M・スタール)、及びそのリメイク「悲しみは空の彼方に」(1939年/ダグラス・サーク)があるが未見。

1949年 米 エリア・カザン