ブラック・スワン

 映画の紹介には、プレッシャーに負けて精神が崩壊していくバレリーナ、とあるが、このプレッシャーは正確に言えば性的オブセッションであろう。ブラック・スワンを演ずるために舞台監督から性的リテラシーを高めることを要請されたダンサーが、次第に性的妄想にからめ取られていく。監督に「処女か」と聞かれ「いいえ」と返事するが、これが明らかにウソである。彼女はマスターベーションすら知らないのだ。最後にガラスの破片で自らの腹を刺して死んでいくのは明らかに破瓜を象徴している。死の直前に観客席にいる母親と目が会うが、娘の舞台姿に感動している母親を見せるのが目的ではなく、ヒロインを処女に押しとどめていた抑圧者としての母親を見せるのが目的なのだ。見終わった時の興奮は感動と呼んでもいいが、感動だとしてもその大半は「白鳥の湖」そのものへの感動であり、残りはヒロインの自死によって虚構としての芸術が現実になるという、決してあり得ないことに対する感動であるとしたいが、ナタリー・ポートマンに、遠く「レオン」のマチルダの幻像を見つつ、その破瓜に加担した事による興奮だったのかもしれない。マリア信仰による処女=純潔=白鳥という図式が、常にブラック・スワンに脅かされるという構造を持つ西欧文明。これはその文明に翻弄され、文明によって破滅していく女性の物語である。ナタリー・ポートマン、本名ナタリー・ヘルシュラグは、いつの間にかハーヴァード大出の才女となっていたが、良く言えば恋多き女性、悪く言えば乱脈な性生活を送る女性で、とっくにこの文明の桎梏からは自由であるように思えるが、あるいはそれは「強迫反復」なのかもしれない。
 引退を強いられたバレリーナ、ベスに扮した女優がウィノナ・ライダーだとは最後まで気づかなかった。彼女も39歳になってしまっていたのだ。ついでに年を言えば母親役バーバラ・ハーシーはまだ62歳(70歳くらいに見える)、13歳のマチルダ、ポートマンはすでに28歳。監督役が、好色が顔面に露出しているヴァンサン・カッセルだというのは適役なのか、本作の瑕瑾なのか。

2010年 米 ダーレン・アロノフスキー