善き人のためのソナタ

 この世の悲惨さを原資に、いくらでも「善い」話を作り続けるがよい。当方は「感動」とやらと引き換えに2時間ほどの時間を棒に振っただけ。
 多分、善というものは我々の広大な心の中で、ほんの一角だけを占めている概念なのだ。全的に善なる心というものはあり得ない。世界の中で常に善が希少な資源であったことは不思議ではない。我々の心の中でさえそれは希少な資源なのだから。その希少な善に向かって映画作家は語りかけたつもりなのかもしれないが、「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」というような講釈つきで「善き人のためのソナタ」なる曲を聴かされても、少なくともそれは私の心の中の善なる部分には触れえなかった。「シュタージ」の惨禍はもう終わったことだと、安心しきった人が、その安全地帯から、ヴィスラー大尉の改心と没落とを例の如く享楽しているだけのことに、「感動」というような言葉をあてる。しかし悪というものが何度でも人間の世の中に再来すること、シュタージは形を変えてまたやってくるということを知っている人にとっては、ただ「感動」なるものが病気のように伝染していくのを見るだけである。そしてそれは、現実のシュタージのもっとひどい非人間性を隠蔽するだけの結果に終わってしまっている。

2006年 ドイツ フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク