キャリー

 音楽の高まりと共にキスが交わされるこの映画は、2012年の今日ではもう考古学的に古い映画の部類に入る。ワイラーだからなんとなく原作に忠実に映画化しそうなものだが、調べてみるとかなりの相違点がある。総じて現実的な原作にくらべ、映画的ロマンを相当に盛り込んであるのだ。
 田舎からシカゴに出てきたヒロイン、キャリー(ジェニファー・ジョーンズ)はウブな少女として登場し、最後までウブなままなのだが、原作のキャリーは相当ドライな女である。むしろアンモラルというべきキャリー像がわざわいして、ドライサーのこの処女作はほとんど売れなかったという。映画ではキャリーはセールスマンのドールエ(エディ・アルバート)と生活の必要上やむなく同棲し、その後クラブ支配人のハーストウッド(ローレンス・オリヴィエ)の方に純愛を捧げるということにしている。しかし原作では、キャリーは華やかな生活を与えてくれたドールエを好きになっているし、ハーストウッドの許に行くのは、彼のほうがもっと金持ちに見えたので鞍替えしただけなのだ。映画ではドールエを決して好きになっていないし、同棲生活に入る過程も曖昧に描いている。後にキャリーはハーストウッドの許を去り、その後彼は零落するのだが、映画ではキャリーはハーストウッドの苦境を全く知らずにいたことになっている。原作ではスターの道を歩み始めたキャリーがハーストウッドのことなどほったらかしにしているだけであり、知るも知らないもない。このハーストウッドの苦境を知らずにいる辺りは見ていて不自然に感じるところで、原作をこれだけ変えていれば不自然になるのも当然、これでは全く別の話だ。原作、ハーストウッドの末路は物乞い生活の末、ガス自殺。映画、ガス自殺を仄めかしはするけれど、キャリーの愛をなぜか(多分プライドから)拒んで、彼女の元を去るところで終わっている。映画のほうの流れからすると、元はと言えばキャリーのせいで落ちぶれてしまったのだから、ハーストウッドを苦境から救い出そうと衷心から思い(なにしろ純愛を捧げた相手であるし)、手を差しのべている彼女に縋って、それでむしろ彼女の心理的負い目を解放してやるというのが自然な結末というものだろう。
 キスシーンで音楽を高めるというドラマツルギーは、純然たる男女の断絶から来る悲劇を、むりやりお涙頂戴にしてしまうドラマツルギーと同一のものなのだろう。1900年、ドライサーが抉り出したアメリカの現実は、1951年、ワイラーというエンタテイナーの手によってお手軽な悲恋物語に改鋳されてしまったということになる。そういう映画にまた日本で「黄昏」といううら寂しいタイトルをわざわざつけてくれる。いくら老いようと人間は自らたそがれなければ、決してたそがれたりはしない。

1951年 米 ウィリアム・ワイラー
Carrie
邦題「黄昏」