わが家の楽園

 邦画「わが家は楽し」(1951)の原案は脚本家田中澄江で、彼女と柳井隆雄とが協力して脚本を書いたとされている。この脚本の元歌が戦前に作られたこのアメリカ映画であるのは間違いない。戦後まもないころ、このように外国の映画を「アレンジ」して国産の話にしてしまうということは、かなりノンシャランにやられていたことである。現在なら著作権の問題でクレームがつくところで、ACTAなどができたらひとたまりもないだろう。
 ACTAの主眼はそこにはなく、ネット言論の封殺や製薬会社の利権の保護などがその隠された狙いだが、おそらく日本では中国などで乱造されている粗悪なコピー品が一掃できればそれに越したことはないという感覚で、さしたる議論もされないままスルーされているらしい。
 それはさておき、興味があるのは、戦後の復興途中の貧しい日本が、戦前のアメリカのお手軽なハッピーエンドの映画を模倣してしまうというその心理である。占領国アメリカの悪意には目をつぶり、そこに善意だけしか見たくないという心理がここに働いているかのように思える。そもそも、日本を骨抜きにすることにしか関心のなかった、小ずるく狭心なマッカーサーを、日本人は人間の善意というキャプラの曇ったフィルターを通してしか見ることができなかったのだ。講和条約の成立までアメリカの検閲は続き、反米的な映画を作るなどということ不可能であったにせよ、ここまで日本人にアメリカの生活がパラダイスであるというような夢を見させたのは一体何か。キャプラの映画のような、アメリカにとっては自らの暴虐を忘却するための手段が、日本にとってはそのまま「ストックホルム症候群」のような、自らの惨めさを忘却するための手段として機能していたのか。

1938年 米 フランク・キャプラ