ビヨンド・サイレンス

 坦々とした映画だが、両親が聾者だという、特にその父親に共感できない。音楽に夢中になり読み書きをおろそかにする娘を心配するのは当然だとしても、結果的には音楽学校行きに難色を見せ、身近に置いておきたいという欲求が表面に出ると、娘の身辺に関する心配がすべて自らのエゴイズムに由来するように思えてしまう。即ち手話を理解し健常人との間の通訳役をしてくれる存在として手放したくないだけ、ということになる。十八才で男を部屋に引き込んだら健常人の親でも心配するだろうが、要は娘離れしていないだけでないのか。自分が聾者だとしたら、娘が健常に生まれたことに感謝し、むしろ自分の世界からは遠ざけ、広い世界に出してやるのが、普通だと思えるのだが。確かに愛の物語には違いないが、多くの人がこの話に共感を抱いた、ということが私にはピンと来ない。しかし多分それは演じた役者に対するただの生理的反感に由来するのかも知れず、通常の親が娘に対して抱く保護の願いが、彼等の場合は不幸にも自分たちの不自由な世界への身勝手な引止めのように見えてしまうということなのだろう。主演の女性は確かサガンに扮した女優なのだが、これはドイツ映画なのだからフランス人のわけはないと疑った。しかし彼女は紛れもなくサガンのシルヴィー・テステューで、この映画のためにドイツ語と手話とクラリネットを勉強したらしい。その母と父もそれぞれフランス人、アメリカ人である。変なドイツ映画もあったものだ。まるで場違いに「I SURVIVE」の唄が(一番印象的に)流れたりするし。

1996年 独 カロリーヌ・リンク