死刑執行人もまた死す

 ハイドリヒ暗殺事件を描いた映画「暁の七人」(1975)は、その暗殺作戦とやらがあまりにお粗末なので途中で見るのをやめてしまった。同じ事件を描いて一番古いこの映画は、すでに襲撃が終わったところから始まるが、「傑作」と言われるこの映画もやはり興味を持って見通すことが難しく、途中で二、三度休み休みしつつようやく見終えた。襲撃の後ひたすら逃げ回るレジスタンスの「闘士」にあまり共感できなかったためか。彼は迷惑をかけるのは百も承知でたまたま知りあった女性の家に隠れる。その家の家長は後で捉えられ殺害されている。襲撃後も生き続けるのが前提なら、逃走の計画もしっかり立てて欲しいところだ。ナチスはこの事件に対する「血の報復」として1万3千人ものチェコ人を殺した。チェコ人は一体となってこの暗殺者を支持しているからいいようなものだが、「いさぎよさ」という日本人の価値観というか美学が抜けない私から見ると、この「闘士」にさっさと自殺するなり自首するなりしてくれ、と言いたくなる。「いさぎよさ」という価値観では世界に伍していけないことは重々承知の上。
 ハイドリヒについては、1942年5月のこの暗殺事件より、ユダヤ人の抹殺という「最終解決」を決めた同年1月のヴァンゼー会議を描いた「謀議」(2003)のほうが数段面白い。ハイドリヒに扮したケネス・ブラナーの雄弁と冷酷(即ち合理性)に危うく魅せられそうになる。どうしてもレジスタンスや連合国側の宣伝映画的側面が抜けない前二者の映画と違い、極めてニュートラルな手つきでナチスの戦争行為が描かれているという違いが大きい。ナチスの高官にとってユダヤ人女性を性的に自由にすることが当然の特権のようにさらりと示されているのも、そのニュートラルな手つきの一環だ。ニュートラルと言ってもそれは人類の巨大な狂気に包まれていることは言うまでもない。

1943年 米 フリッツ・ラング