慰めの報酬

 初めて「007」という物語に触れたときの衝撃は、平和な日常の底に常に戦争が継続しているという事実からのものだろう。「殺しのライセンス」という概念は、平和ボケした日本人には殆どパラダイムの転換レベルの概念だった。「殺人」というものが反体制的な犯罪ではなく、戦争がそうであるように体制側の正義として行使されているということを突きつけられても、しかし大部分の日本人はそれを何か新しい劇画のフレームとして捉え、それを享楽しただけのように見える。
 冷戦崩壊後の「007」は、基本的に国家と国家を超える犯罪組織との戦いの物語になっているが、この犯罪組織も初期のころはまるでショッカーなみの組織に従順な違法集団として描かれており、さすがにその虚構性があらわになってくると(秘密の要塞基地で、制服を着て作業している大勢の作業員をどうやって確保するのだろう)が、すこしずつその犯罪組織を本来の姿に近いものとして出すようになってきた。すなわちただの普通の企業として。ただしその企業は多国籍であり、概ねメーカーではなく、多くのメーカーを傘下に抱える金融企業というのが典型的だ。
 かくて戦いは、国家と多国籍企業ナショナリズムグローバリズムとの戦いというものになり、そして007だから当然前者が勝利を収める。観客はそれでほっと一安心する。政府というものの保護機能を頼り、それを当てにしている観客にとってはそれは普通の反応である。
 現実は―グローバリズムのほうが圧倒的に優勢である。ナショナリズムと言っても、国家―政府は、自由と民主主義という名目のもと、議会制という効率の悪い体制を強いられている一方、グローバリズムの担い手のほうは、経営者の首を挿げ替えることはあっても、オーナーは一定不変のある特権的一族からなる継続体、ゴーイング・コンサーンであるからだ。悪の親玉のほうは身分の保証があるというのに、ナショナリズムの側は、Mといえども、議会によって首を切られてしまうはかない存在である。かつかつナショナリズムが勝ったとしても、あるいはそれは議会や行政府に食い込んだグローバリズムの手のものの勝利だったのかも知れない。そもそもグローバリズムは国境の消滅を求め、それによって利益を得るものだというけれど、むしろ国家というものの存在、国境線を境にした価値体系の違いから利益を得てきたというのが本当のところではないか。だから国家の廃絶を唱えつつ、国家間の対立をあおり、実は国家という流通の障害物は取っておく。その障害から自由であるという特権だけを自らの手に残して。
 ジェームス・ボンドは英国に忠誠を誓い、それを自分の誇りのよりどころにしているが、その英国を今でも強大なままにしているのは、小さな島国としての英国ではなく、その背後にある強大な金融資本である。
 これを「陰謀論」とするなら、よろしい、陰謀こそ007得意のテーマなのだろうから、ぜひ新作にこの陰謀を取り入れて欲しいものだ。

2008年 英 マーク・フォスター