モブスターズ/青春の群像

 ついに仇を討たれ、窓から突き落とされて歩道に脳漿をぶちまけるという憂き目に会うファレンザーノ親分はいかにも憎さげに描かれている。レストランで蜂の巣にされるマッセリア親分もまたしかり。一方で暗黒街をのし上がるルチアーノ、ランスキー、バグジーコステロの四人組のいかに若く颯爽と描かれていることよ。この脚色には一見、これが人殺しの無法者の世界を描いたものだということを忘れさせられそうなとてつもないペテンが潜んでいるようだが、しかしこれは闘争する人間の内的観照の世界としてみれば、理にかなっているのだろう。すなわち敵というものは常に冷酷で極悪であり、味方は常に慈愛に満ちた善的美的存在なのだ。だから、欲得づくで身内でも誰でも殺害し、四六時中うまいものを食い続け、好きなものはと問われて「若いプッシー」だと答えるようなボスは、若くダンディーなヤクザに殺されるべきなのであり、冷酷非情にミカジメ料を取り立て、父親を破滅に追い込んだボスは十五年の忍従の果てに、みごとに仇を討たれるべきなのである。
 こういう構図の世界であるからこそ、ルチアーノとその情婦の踊り娘が玉突台の上で交情するとき、バックにロマンチックな音楽が流れようと一向に構わないのだ。後でその情婦が期待通りに、しかも子供が出来たという幸福な告白の直後に、という念の入れようで惨殺されるのは、ロマンチックな音楽の中で愛を交わしたことに対する代償のようなものだ。
 これだけ盛大に人が殺され続けながら、後に手が回るやつが一人もいないのも道理、警察は見事にならず者の手中に落ちていたのである。そのことに一向に違和感すら覚えないのは、知らず知らずこの物語を、戦国時代の下克上の物語と見ているからだ。信長や秀吉が丸暴のデカに締め上げられるはずがない。つまりそれがどのような私闘であっても、警察権力すら巻き込んでおけば、それは立派な戦争になり、殺人は善なる行為とされるのだ。ある時期のアメリカの歴史を、この警察権を国家が私人から奪還する歴史と見ることができるのではないか。そもそも国家というものは、そのような警察権を個人から奪いつくす何者かなのではないか。作中さりげなくジョセフ・ケネデイの名が、ヤクザの宿敵としてでてきたが、ケネディ一族は、国家という道具を借りてこの警察権をその手中に収めようと目論んだのではないだろうか。ロバート・ケネディは司法長官として、なによりもその最大の敵をマフィアと見定めていたのである。シェリフやマーシャルやポリスやさらにはネスのような財務官などと良く分らない警察機構を持つアメリカの、この面からのアプローチは興味深いかもしれない。

1991年 アメリカ マイケル・カーベルニコフ