砲艦サンパブロ

 初見の時はキャンディス・バーゲンの美貌が眩しく、水兵姿のスティーヴ・マクィーンの無駄のないたくましさに惹かれもした。しかしその映像美に心ゆくまで堪能できなかったそのわけは、東洋人代表として「マコ」が出ていたからだ。恰も鏡を見るように彼の顔を見せられていては、洋画の中の西洋人の雄偉な姿にうまく幻惑されなかった。「マコ」は日本人ではなく中国人という設定だが、いかにも原アジア人という顔である。彼のみならず他のアジア人俳優たちもみな黄疸がでているような不景気な顔色になっている。今ならもっとマシな東洋人俳優がいるし、西洋人が美しく、東洋人がそうでないような露骨なカラーリングでは映画はそうそう作られない。リチャード・アッテンボローの恋人役に扮したマラヤット・アドリアンヌという女優も、役柄上もう少しきれいに撮ればいいのに、血色が悪いのは同断である。アドリアンヌは「エマニュエル」を書いた作家エマニュエル・アルサンでもあるのだから、もう少し妖艶に見せてくれても良さそうなものだ。とにかくこの映画では女性の美はキャンディスに独占されており、彼女の教師らしいつつましい服に隠された肉体がこの映画の秘められた動因である。キリスト教徒として肉体を放棄しているはずの彼女のその、深く秘匿された肉体が、マクィーンから隔てられ、遠く野蛮の地、中国奥地に遠ざかっていく。それを追いかけていき、そして到達しないまま客死するところに清冽なロマンがある。
 それにしても中国の政治的プロパガンダの巧みさの、その一端がこの映画からも伺える。それは、頻繁な王朝の交替があり、列強の蹂躙を受けもした孔孟の民が、第二の天性のように身につけたものなのだろう。

1966年 アメリカ ロバート・ワイズ